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死んでしまう人たちについて

(最初から死について触れるのは絶対縁起が悪そう。)

 

死んでしまいたいという状況で、他人の意見聞いてなんとかしようという気がない人間は仕方がない。淘汰だと思う。

 

僕の友達も死んだ。誰にも心の内を見せないまま。僕が話を聞いていたら、彼は死んでいなかったかもしれない。

けれど、だからと言って僕が彼の死について責任を負うものではないことも確かだ。

彼は彼自らの意思で数ある選択肢の中から死を選び取ったのであって、僕はその意思を何の理由もなく、無理矢理へし折るべきであったとは思わない。

ただ、なぜ、彼は数ある選択肢の中から死を選んだのか。なぜ僕は彼の意思をへし折る理由を持たなかったのか。

 

個人で認識できる選択肢の範囲は限られている。死より有力な選択肢を与えてくれる他者が、彼にとっては存在しなかったんだろうと考えている。僕にとっては寂しい話だ。

要は、僕は彼にとって有用な人的ネットワークになれなかったのだ。

 

僕の通っている精神科の医師が、死を見据えた人を繋ぎ止める方法として「医師に精神的に依存させる」という方法を話していた。医師を死のうとしている人のネットワークにする。

医療行為なのかは、分からないが。

 

最近、行政による公的扶助のネットワークと、個人的な関係性のネットワークについてよく考える。どちらのネットワークからも抜け落ちてしまった人たちが死んでしまう。

 

どこにも繋ぎとめられなかった人が死んでしまう。

ひとりひとりが、他者と関わる勇気を持てば、精神科医でなくても1つネットワークが繋がるかもしれないのに。誰もが目を背ける。