なんらかのメモ
メモ
他人が別の人間である以上、完全に理解することはできないし、完全に理解されないわけでもない。
完全に敵というわけでもないけど、完全に味方というわけでもない。
自身が他者に影響を与えうる事はあっても、主導権は握れないし、握ろうとしてはいけない。
他者から影響を受けることはあれど、他者に全責任を負わせることはできないし、してはならない。
意思決定はあくまで自身がすべきであり、他者からは(どの程度有効かはさておき)その選択肢が得られる程度である。
自分は他者の人生の、ある程度しか責任を負うことはできない。
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あるコミュニティに所属する事は、ある一定水準以上、他者からの理解を得ることができる。
あるコミュニティに所属することで、思考に偏重が現れる。集団思考。
多数のコミュニティに所属する事で思考の偏重は緩和できる。所属意識や他者からの理解は薄まる。自己の輪郭がはっきりしてくる。
孤独感があるが、本来自身で持つべきである。
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5分悩んで分からなければパズルのピースが足りない。行動すること。
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あたしポンコツアンドロイド
急ぎ足の私の耳に、雨音に混じり微かな猫の鳴き声が届いた。見遣ると生垣の下に、おそらく母猫に捨てられたであろう子猫がいる。
雨で体温も下がり、命の危機に瀕していることを本能的に察しているのか、悲痛なまでに鳴き続けている。
運の悪いことに、通りがかったのは社員アンドロイドとなってしまった私だ。他の誰かが通っていれば。…始業時刻が迫る中、微かに残った心で猫を雨のできるだけかからない場所に移動させ、燻る心を揉み消すようにその場を去った。
猫の生死は知るべくもない。
死んでしまう人たちについて
(最初から死について触れるのは絶対縁起が悪そう。)
死んでしまいたいという状況で、他人の意見聞いてなんとかしようという気がない人間は仕方がない。淘汰だと思う。
僕の友達も死んだ。誰にも心の内を見せないまま。僕が話を聞いていたら、彼は死んでいなかったかもしれない。
けれど、だからと言って僕が彼の死について責任を負うものではないことも確かだ。
彼は彼自らの意思で数ある選択肢の中から死を選び取ったのであって、僕はその意思を何の理由もなく、無理矢理へし折るべきであったとは思わない。
ただ、なぜ、彼は数ある選択肢の中から死を選んだのか。なぜ僕は彼の意思をへし折る理由を持たなかったのか。
個人で認識できる選択肢の範囲は限られている。死より有力な選択肢を与えてくれる他者が、彼にとっては存在しなかったんだろうと考えている。僕にとっては寂しい話だ。
要は、僕は彼にとって有用な人的ネットワークになれなかったのだ。
僕の通っている精神科の医師が、死を見据えた人を繋ぎ止める方法として「医師に精神的に依存させる」という方法を話していた。医師を死のうとしている人のネットワークにする。
医療行為なのかは、分からないが。
最近、行政による公的扶助のネットワークと、個人的な関係性のネットワークについてよく考える。どちらのネットワークからも抜け落ちてしまった人たちが死んでしまう。
どこにも繋ぎとめられなかった人が死んでしまう。
ひとりひとりが、他者と関わる勇気を持てば、精神科医でなくても1つネットワークが繋がるかもしれないのに。誰もが目を背ける。